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■■大河で新婚期間が短い不幸な夫婦

1 :日曜8時の名無しさん:2014/01/18(土) 15:22:08.17 ID:lnXoVD90
■■大河で新婚期間が短い不幸な夫婦

戦国時代、江戸時代、太平洋戦争中、幕末、平安時代など
どの時代でもかまいません。

大河でカットされたけど、この人は、新婚期間短いと言う史実の話も可です

2 :日曜8時の名無しさん:2014/01/18(土) 15:44:07.97 ID:TPVk38yG
前回の官兵衛で出てきた浦上清宗とおたつ(史実では官兵衛の実妹)
祝言中に攻め入られ殺され、夫婦でいられた期間0日

これより短い人は大河では居ないだろな

3 :日曜8時の名無しさん:2014/01/18(土) 19:58:31.85 ID:lnXoVD90
大河では、扱われていない時代だけど

伊達政宗の祖母は、若いときに花嫁行列を襲撃されて、伊達家の嫁になっているね。

伊達晴宗さんは姫の輿入れの日を狙って花嫁行列を襲撃!久保姫を強奪

4 :日曜8時の名無しさん:2014/01/18(土) 20:06:18.85 ID:lnXoVD90
可哀想な例だけど、忠臣蔵の大石主税は、許婚の女性がいたと時代劇では
でて来るみたい。

(当然、祝言なんてあげてないけど)
しかし、許婚の説は架空だと言う説も根強いみたいで・・・よくわからないな。


大河で、大石主税の許婚って?出てきたかな? 
民放の時代劇では見た記憶があるんだけどね。

大石主税は、享年16歳 (許嫁 赤穂藩士山岡覺兵衛娘)

5 :日曜8時の名無しさん:2014/01/18(土) 20:14:34.98 ID:lnXoVD90
(家康に嫉妬で殺された若い側室) (再婚後に急死)
養儼院 (徳川葵三代で出てきたはず?)

養儼院(ようげんいん、慶長2年(1597年) - 寛永2年3月28日(1625年5月4日))は、
徳川家康の側室。駿河今川氏の家臣黒田直陣の娘。お六の方と称した。
お勝の方の部屋子を経て、徳川家康の側室となり、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣にも供奉した。
元和2年(1616年)に家康が死去すると出家して養儼院と号し、田安比丘尼屋敷に住んだ。
後に喜連川義親に嫁ぐ。
しかし寛永2年(1625年)3月28日、家康の法事で日光東照宮を参詣した際に急死した。享年29。

(日光での急死の理由は、再婚に嫉妬した死んだ家康の木造が、突然、お六の頭を直撃したためと言われている。
その事件後に、将軍の側室は、全員、再婚できなくなると言う規則が出来てしまった。

6 :日曜8時の名無しさん:2014/01/18(土) 20:33:29.99 ID:y/GoBCjA
側室だけど駒姫。

秀次の聚楽第に到着したと思ったら、即、三条河原送り。

7 :日曜8時の名無しさん:2014/01/19(日) 00:24:12.18 ID:A3XJJIM4
来年の大河ドラマのヒロインのスレですか?

8 :日曜8時の名無しさん:2014/01/19(日) 01:54:51.53 ID:1oileMhF
>>7 幅広い意味で解釈してかまいません

9 :日曜8時の名無しさん:2014/01/19(日) 12:02:07.92 ID:k5mioMs4
>>5
事件の真相は謀殺ぽいな

10 :日曜8時の名無しさん:2014/01/19(日) 13:17:02.94 ID:1oileMhF
>>9 真実は闇の中ですね 
(まあ、家康って、当時の記録で遊郭通いで性病に感染と書かれているので、
 側室も、感染リスクと言うのはあったみたいです)

養儼院は、家康が死んだ時点で、まだ19歳ですね。
 
戦国の常識では、出陣の陣中に側室を連れてくることは、非常にまずいとされていましたが、
家康は大坂の陣で、側室を連れてくるし・・・・・欲望におぼれていた節はあります

11 :日曜8時の名無しさん:2014/01/19(日) 13:22:50.00 ID:1oileMhF
無料百科事典には、徳川家重の女説が紹介されていた。

9代将軍の逸話で、スキャンダルみたいなものが
徳川 家重(とくがわ いえしげ)は、江戸時代の江戸幕府第9代将軍
(在任:延享2年(1745年) - 宝暦10年(1760年))である。

実は女性であったという説がある。
あまりに頻繁に尿意を催していたせいで口さがない人々から小便公方と揶揄された。理由は後述にあるものと推察されている。
正室が死去したため、側室のお幸の方を寵愛した。やがて、長男・家治が生まれ、お幸の方は「お部屋様」と崇められた。しかし、家重は後に、お千瀬の方を寵愛するようになった。女だけでなく、酒にも溺れるようになった家重に対し、
お幸の方が注意をしたもののそれを聞かず、むしろ疎むようにさえなった。
そうした中、側室との睦みごとの最中にお幸の方が入ってきたことで癇癪を起こし、お幸の方を牢獄に閉じ込めてしまった。それを聞いた吉宗が「嫡男・家治の生母を閉じ込めるのはよくない」と注意し、
お幸の方は牢から出られたものの、2人の仲が戻ることはなかったという。
戦後、増上寺の改修に伴い、同寺境内の徳川将軍家墓所の発掘・移転が行われた。この時、歴代将軍やその家族の遺骨の調査も行なわれている。
排尿間隔は身体構造上女性の方が短い。
吉宗が他の候補者たちを差し置いて将軍後継に選ばれた要因の一つが嫡男・家重がいることであった。このため女子を男子と偽って育てていたとする。後に吉宗には男子(徳川宗武、徳川宗尹)が誕生しているが、吉宗は兄弟の順序を重んじ家重を後継としたものの、
大御所として政治の実権を握り続けた。
言語不明瞭で側近の大岡忠光にのみ聞き取れる声でしか話しておらず、将軍の声を聞いた人がほとんどいなかったとされるのは女声であることを悟られぬ為の方便だったとする。
大奥に入り浸りだったとされるがその割には子供が二人だけと少ない。また、正室の比宮増子も嫁いでから僅か2年後に流産で亡くなっている。
前述の遺骨調査についての報告書に曖昧な表記や意味不明な比較が目立つ。
頭蓋骨や骨盤が女性のような形であった。骨盤の写真が他の将軍たちと異なり正面から撮影されていない。
歴代の将軍は遺骸を収められる際に、胡座の姿勢をとるのが通例だが家重のみは正座の姿勢で収められていた。これは女性が埋葬される際にみられる特徴。

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